人間 ― 不可解な生きもの

明治維新百五十年(その一)

1968年に徳川幕藩体制が崩壊し明治維新政府成立となった後150周年は平成30年だった。本稿では徳川幕府崩壊の関連事項を私見を中心に述べてゆきたい。

幕末騒乱の端緒はいわずもがな1853年(嘉永六年六月)のアメリカのペリー提督率いる四隻の蒸気船艦隊来航である。その直後にロシアのプチャーチンも外交交渉にて来航する(但し事前通告し長崎に帆船にて)。そこから幕府崩壊までは14年半くらいである。それが長いか短いかは諸説紛々であろう。私は意外と長いように思う。現代社会なら3~4年の感じであろうか。そのおおよそ15年の期間に起こったことは膨大な小説、研究、論考、劇ドラマのネタを提供、それで食えている人々が真に多数いるだろう。

さらに維新(新政府成立)となる1868年より10年後に西南戦争がおこり(西郷隆盛没)またその1年弱後には大久保利通暗殺となるところで維新の時期は一区切りという定説なので、ペリー来航より概ね四半世紀ということになる。余談だがその明治元年は当時の太陰暦には数年に一度ある閏月が四月の後にあり、13か月だった事を今回資料をあたる中で初めて知った。

しかし、大前提はその来航以前1840~の清とイギリスの「アヘン戦争」である。また細かくは日本では1808年イギリス船フェートン号が長崎に強制入港、オランダ商館を威迫した事件が異国船打払令~お台場築造に繋がり、高野長英・高島秋帆・佐久間象山らの人材輩出の契機となる。更にはその頃よりロシアの接近しきりで、1861年にはロシア軍艦ポサドニック号の対馬一部占拠(イギリス戦艦の介入で退去)の大事件がある。実のところペリー来航約一年前オランダより国書にて、アメリカから要求を携えた艦隊が来航するので開国を視野にいれるべき等という通告があった。しかし経験の浅い外交分野につき有効な対策無く1年が過ぎた。これも初めて気付いたが、ペリー来航の直後のその月内に十二代将軍家慶(まともな人)が亡くなったのだ。それも幕閣側の不安定要因になったはずだ。

1603三年に徳川家康が征夷大将軍に任じられてより、ペリー来航迄は奇しくも丁度250年である。その年月はいくら鎖国をしていたとはいえ十分に政権の威勢を保てていたのは半ば奇跡的である。その間もちろん一歩間違えればバランスを崩し政権の衰退を招く事象も多々あったはずで、赤穂義士事件(忠臣蔵・1702年元禄十五年)の裁きの帰趨は政権の基盤を揺るがす代表事件で、小では大塩平八郎の乱(1837年天保八年)があり、もちろん頻発する領民・百姓一揆もむろんの事だ。しかし、特に大半の諸藩の経済事情は破綻していた。借財の利払いが年間収入の3~4割位の藩が続出していた。実は忠臣蔵の元禄の頃(幕府発足後約百年)にはすでにそんな感じになっている藩がでてきた。その立て直しで有名なのは米沢藩主上杉鷹山や備中松山藩の山田方谷らであろう。いわんや、さらに150年を経てその症状は重くなり、ペリー来航時は経済的には危険水域をはるかに超えていたといえる。

また民衆にもその長い年月の澱が相当溜まり「えぇじゃないか騒動」はその象徴的なものだ。よってトリガー・引き金はひかれ、雪崩を打っていったというのが大雑把なメカニズムだ。さらに1864~5年(安政元~二年)の西日本~東海・関東地方を襲った群発的安政大地震は江戸中心部にもかなりの倒壊・死傷者を出し不安を募らせた。震源地の一つの推定に亀戸~市川となっている記述を今回みてびっくりした。かの有名な水戸の儒学者藤田東湖はこの地震で圧死したのを知り更に驚いた。維新後、版籍奉還・廃藩置県を経ていわゆる「ガラガラポン」状態で新国家はスタートした。しかし士族階級の大量失業の反動は、むしろ勝者側に大きく、「征韓論」をめぐる政争を経て、長州・肥前の藩族による萩・秋月の乱を代表に薩摩を中心の西南戦争にて締め括られる。これら藩の消滅による借金踏み倒しのおかげで破綻した商人や庄屋が相次いだが、結果的には経済再生となった点では意義深い。(その二に続く)