人間 ― 不可解な生きもの

「ブリューゲル」ブームがきている(その二) 

ピーター・ブリューゲル一世はそのイタリア遊学後、当時著名な銅版画の版元・販売者であったヒェロニムス・コックに見いだされ銅版画の原画を供給したのでそれらもかなりの量がある。当時ヨーロッパ社会は一種の本格成長期にさしかかっており、特にフランドルやネーデルランド地方は中産階級の勃興がめざましく、その各家庭の壁を飾る絵画類はかなりの供給量を要したのだった。前述デューラー・レンブラントなども銅版画の原画供給者としては最重要人物である。 ブリューゲルの場合はそのバックの遠景にアルプスをあしらったのは、現代のように簡単に旅行ができない当時、人々の想像をかきたてる絵葉書的要素にもなっていたことだろう。

また氏の最大の特徴はイタリアルネッサンスよりの脱却的画風が美術史において価値がある。教会支配ではないので純宗教画は無く、例えば「農民の結婚祝いの踊り」のような村人の興じている世俗画、「イカルスの墜落」のような教訓的寓話画が多いが、旧約聖書に題材をとったもの(エルサレムの幼児虐殺など)もある。またその一部にヒエロニムス・ボッスの流れをくむ怪奇・幻想画があり、一端にある2017年に来日したボイマンス美術館所蔵のバベルの塔は(同画題のもう一枚はウイーン美術史美術館にある)日本においてブリューゲルブームの導火線となった。この稿を執筆している2018年初頭の1月23日より「ブリューゲル展・画家一族150年の系譜」が東京都美術館で開かれる。その150年の系譜とは氏の親世代から始まり、前述息子のピーター・ブリューゲル二世、ヤン・ブリューゲル一世と又その子のヤン・ブリューゲル二世およびその子ら(孫世代)迄らしい。

話をピーター・ブリューゲル二世に移す。同2世は父の遺作の模写絵の供給をメインの生業とし工房なし、父の作品のDNAを世の中に広めた点で美術史に大きな足跡を残した。模写でも多少のアレンジは加わっているし、職人画家としてかなりの水準である。その作品群はヨーロッパおよび全世界の美術館にちりばめられ、ブリューゲルという名を世の中に知らしめたという点で非常なる功績者である。また父の原画が失われている作品の模写の現存は大変な意義がある。

次にヤン・ブリューゲル一世(1568生~1625・1月没)は氏の次男であり、乳児期に父が亡くなったので兄以上に父の顔はわからないだろう。非常に幸便だったのは母方が画家一族だったので、多分兄とともに幼少期より絵画環境の中で成長したので、自ずと専門画家になっていったが、兄とはまず画題を変え、花などの静物を中心とし「花のブリューゲル」「ビロードのブリューゲル」と呼ばれた彼は押しも押されぬ大画家といえる。美術館にて花でブリューゲルとあれば彼ないしその息子のヤン・ブリューゲル二世のものである。すくなくとも大ブリューゲルにはそういった静物系の作品は見当たらない。

さらにヤン・ブリューゲル二世(1601~1678)となると同じアントワープに住んでいた美術史の大立者ルーベンス(その工房からはファンダイクやヨールダンスといった巨匠を輩出している)との関わり合いがでてくる。実際ルーベンスとの合作も存在する。それもこの稿を書くにあたり調べて知ったことは自分自身ヘェーで、書いたかいがあり幸甚であった。もっと早く書きこの程度の勉強をしておけば美術館を巡るにあたり「ブリューゲル」という名前の探索レーダーが鋭敏に働いたはずとの後悔も生じた。

手前味噌だが読者諸氏は本稿をよく理解しておけばブリューゲルについては、他人様に蘊蓄ばなしができるので、かなりの得をされたと言える。自分自身二年位前より感じていた、ブリューゲルがわかれば、活躍年代からしてヨーロッパ絵画史が俯瞰・概略掌握できるのではということが実感できた次第である!