人間 ― 不可解な生きもの
自慢話
自慢話の好きな人がいる。その人の言うことは本当にそうかもしれない。最初は感心して聞いているが、ひとしきり聞かされると飽きてくる。ここで自慢話の種類をざっと分類すると*財産がある*エライ人や有名人との付き合いがある*親族(親子・兄弟等)が相当な地位にいるか先祖(家系)がすごい*なかなか行けない特別なところ等に行ったことがある*すごく高くて旨いものを食べた(高い店や旅館で)*根性ばなしや武勇伝の類い。*逆にひどい目にあった・苦労した、なども自慢になりうる。
尤もその人の現状がそれなりの地歩を得ている場合においてで、しょぼくれた感じだとただの愚痴になってしまう。更には現状がなかなかなのに卑下のしすぎは嫌味というものだ。又、趣味性が強いものはいかにも自慢していると察せられても門外漢にはさっぱりで、自慢の効果は薄い。
歴史上の人物だと勝海舟は「自慢屋」だったらしい。彼は頭が抜群に良く、また容姿もなかなかで、弁がたつので自己宣伝も上手かったであろう。よって幕末回天のさなか旧幕勢力内で低い身分よりグッと頭角を現したが、維新後は自慢屋がたたり権力の中枢には身を置ききれなかった(実際は何回か名誉職的には就くが、いつも自ら辞してしまう)と聞きなるほどと思った。
前述の類型に話を戻すと「財産がある」といのはほぼ大概所有不動産のことである。私は本業が不動産屋なので聞く機会が多い。何処かにビル・土地・別荘をもっていてすごいだろうというのに付随し、維持が大変だという苦労話さえ自慢となりうる。
さすがに現金類(金融資産含む)がズバリ総額いくらあるというのは私の商売でも口から出るのをまず聞くことはない。たまたま遺産分割協議書を見て知ってしまったことはあるが、現金類をいくら持っているというのは何故か人は言いたくないようである(桁はずれの人はしやらっと言うこともあるらしい)。
私がナンセンスな自慢だと感じた例はすごく高くて旨いものを食べた(店や旅館で)ことを可能性の無いレベルの人にタラタラ自慢することだ。オチは「あなたも行ってみれば」とくる。それならその相手に一回でも近所の適当なものでよいのでおごって「聞き代」を払ってからやれということだ。
又過去に出た会合で先祖家系の自慢話が出て「栗林中将」や「二宮尊徳」の子孫筋とのことで、これは自分には全くあてはまらないので感情としては「ヘェーやフーン」の範疇を出なかった。
そうこう書いているうちに自分自身も存外自慢話をしているのではないかなと省みた。自分では自慢と思わなくても人は自身を大きく見せようという習性があるものだ。
しかしこうも言えるのがお互い顔と名前は知っているが、ある宴席で隣の席になった場合、多少は自慢話を織り交ぜてゆかないと会話が成立しにくいように思える。前述の一つのように「苦労話」のあまりに卑下が過ぎると聞いている方は接ぎ穂がなくなってしまう。私ごとだが、ある年配の女性に「私なんかたいした顔(容姿)してないですから」と云ったら「そうだね」と返され絶句気味になった経験がある。
普通そう思ったら黙っているものだから。相手がたまたま同郷・同窓であるとか共通の知り合いでもいれば当座話はつなげるものだ。また、相手が少々目上ならちょっとした自慢を「団扇であおぐ」気味の方が話しはすんなりゆく。更にはある人の面前で代弁するように同座の人に巧く自慢話をしてあげるのは世慣れた人の高度なテクニックだろう。
自慢の根底には自己愛(ナルシシズム)があり、自慢を介して他人に肯定を促し、「いやー、たいしたことないですよ」と云っておきながら「すごいですね」などとかりそめにも認めてもらいたいのが人間の本心ではあるまいかとこの稿を書きながら思ってみた。