人間 ― 不可解な生きもの
嘘は人間の構成要素か
はたして人間という生きものは朝起きてから寝るまでに嘘をつかない日はあるのだろうか?ここでいう嘘はお世辞・お追従も含む。まあ、それがなければ人の世は成り立たないであろう。嘘には意識してつくものと、無意識のものがあるだろう。私は以前犬と猫、今は猫のみ飼っているので日々自ずと観察しているようだが、その動物たちは嘘つくことはない。もっともカッコウの托卵や、仮死のような事をすることはあるものの。比すると人間は日常的に嘘をはじめとし、つくづく手の込んだことを平然としているわけで、これは極度な進化の証だと感ずる。
転ずるが、法律用語で心裡留保(しんりりゅうほ)とか意思の欠缺(いしのけんけつ)というのがある。心裡留保とは「真意との矛盾を承知でした意思表示」と定義されている。意思の欠缺とは「真意を伴わない名ばかりの意思表示」と定義されている。
例えば、あまりにしつこく結婚を迫られてつい良いと云ってしまい、その気になった相手が指輪を買いこみ、新居の手当てさえもした結果、あれは本意ではなかっと覆すとかだ。「結婚してもよいです」というのを心裡留保ととらえれば相手に対し有効なのでその支度に要した費用の損害賠償の請求の余地がでてくる。また、意思の欠缺ととらえれば原則として無効(無効が認められない場合もある)なのであなたが早とちりで動いたのでいくらかかったなんて知ったことではないということになる。法律上のたてまえは、善意の第三者に対抗できないと定められてはいる。でも、その相手方すら本当に善意(わかっていなかったか)かどうかを好・不都合により使いわけている。とにかく人間は手の込んだことをする抜き差しならない「不可解な生きもの」である。
ついでに書くと結婚詐欺(嘘の一種)なんぞは、私にはやる才能は無いと思うが、自分の筋書き通りに相手が動き、普通肉体もお金も奪ってしまうのだから、うまくゆけば面白くて仕方ないであろう。
一方だまされた側も恨む(告訴などする)パターンとなぜか憎みきれず、そういう思い出として受忍してしまう(告訴などしない・しかし別人が告訴して連件で加わる場合あり)パターンがあるようだ。以上はしょせん週刊誌などで読んで私が思っている範囲のことだが。 通常の男なら(女がやる場合も当然あるが)なにやらあこがれに近いものをもつのが結婚詐欺かもしれない。
また、こういうこともある。記憶が曖昧になっているときで、「多分そうだった」ということを人に尋ねられ、「そうだった」とこたえたとしよう。次に同じケースを同じ人にでも、他のひとにでもよいが、別の機会に「そうだった」とこたえたとする(二度肯定したことになる)。すると人はそれが本当のことだと半ば自己暗示をかけ、自分のなかで「そうである」と事実化してしまうのである。「そうでない」となると嘘をついたことになるので、自分を正当化せざるをえないようになる。 また、わかっているのに「わからない」、「記憶にない」と言うのは実に便利な嘘、つまり、はっきり云わないほうがお互いに都合がよいことが人にはあるからだ。余談だが一昔前からカナダのトロント大学の教授が自分の考えている事象を頭部に装置をつけることにより記録し、その脳波を信号化する研究をしているという。
更に現在、急速なAI技術の進歩の結果、何か神の領域を浸してきた感じだ。そのうち目の前の人のいう事がなかなか信じてもらえない事態になると危惧する。
それでも人間は未来に亘りその脳内で嘘と本当の境目を行き来して存在し続ける不可解な生きものであり続けることかと私は思う。