人間 ― 不可解な生きもの

プロテスタントってどうゆうもの?(その二)

ルターはローマ教皇庁に反旗を翻したわけだから、当然のようにローマ教皇庁側から異端尋問にかけられたが、フリードリッヒ三世が擁護者になりヴァルトブルク城に身を隠し、その間に新約聖書のドイツ語訳を完成させた。それでやっと一般人が聖書を直に読めるようになった。実に大偉業である。

前述はルターの事績のごくさわりの記述だが彼によりカソリックという大河から一つの大きな支流が結果的に作られた。更にはスイスのカルビンもそれに続いた。実は約百年前ボヘミア(現在のチェコ付近)のヤン・フスも同様に贖宥状を糾弾する動きをおこし、相当な波紋が生じたが、早すぎたようで結果は火炙りにされた。ものをおこすのは本当に時期が大事だ。

これも同書を読んで本当になるほどと思ったのは「プロテスタント~抗議する人」という言葉が世の中に定着しているが、それはカソリック側から見た偏見的な呼称で少々問題があり、聖書に書いてあることを信奉する点では「福音主義」という言い方が実体的とのこと。更になるほどと思った事は何故生まれてすぐに洗礼をうけるかの理由だが、人はすぐに罪を犯してしまうので、もし幼児で死亡したら即地獄に堕ちてしまう、よって最初から洗礼をうけておけば避けられるというのだ。更に贖宥状のあるものは、前もって購入しておけばこれから犯すであろう罪の贖罪をリザーブできる機能があるらしい。とにかく即地獄堕ちへの徹底した回避主義である。

その幼児洗礼についてもルターらは問題を呈した。自分の意志がはっきり主張できるレベルになったらその意志を行使して洗礼をうけるべきという思想(洗礼主義)をつくった。これが現代の所謂新教~プロテスタンティズム会派の主流であるらしく、これを以ってしても近代自我思想の骨格となったのが頷ける。ルター派は紆余曲折しながら彼が存命中にかなりの勢力をなしたのは事実である。それは一つの時代の所為なのであろう。各技術(科学的)の累積の果実として経済(貨幣)も累積し、それらが自身の拠り所となり個々人が自我をもってはばたいてゆきたい願望が強まった。斯くの如くして人々の願望意識はドイツから始まりフランスやイギリスに燎原の火のように広がった。

そして千六百年代前半の三十年戦争、ピューリタン革命などが大きな軋轢の結果として勃発した。以後はみ出していった人々が新大陸(メイフラワー号のピューリタンが代表的)に渡って作った国がアメリカ合衆国と言える。よって自らの力(能力・努力)を礎に築いた財産・地位などを是とする考えが現代社会の根幹・源泉となっていることに私は得心した。ついでだが、日本のミッション系スクールのほとんどはプロテスタント系でしかもアメリカ合衆国に渡って組成された教派(団体)からの流れであることも気が付いた。カソリック・正教・プロテスタントなどを分別する感覚は宗教に対して無頓着な現代日本人は持ち合わせていないようだ。

また今更ながら再確認できたのはそのルターの九十五か条の提題文発表の時期はイタリアが中心となるルネッサンス期の終期とほぼ重なる。前述したが、なんにせよこの時期は富と知識の集積が一つの山場を迎えた時期であり、現代につながる自然科学等のいろいろな蕾が一斉に膨らみだした時代である。復習的に述べるが、ルネッサンスは「文芸復興」と教科書に書いてあったことは皆さんよく覚えているだろう。

一つの理想像を得たギリシャ時代~その時期に回帰しようということらしい。最近家にたまたま放置してあったルターと宗教改革についての昭和二十七年に刊行された本を見つけたが、冒頭部分に宗教改革は「リフォーメーション」であり「ルネッサンス」とは頭文字が二つのRなのだとあった。リフォーメーションはリフォームとほぼ同義語で改変・変更といった意味合いが強い。図らずも同時期に場所は異にすれども世の中を変えた大きな運動事象が起きたのはただの偶然とは言えなかろう。