人間 ― 不可解な生きもの

オペラ?声楽?(その2)

前(その1)は声楽全般をコメントし、私自身の声楽キャリアを記したが、その当社ビル3階入居のケイ・アーツオフィスは音楽家の派遣・独自公演もを行っており、東京二期会(オペラ系運営団体)へのつながりも有るが、完全独立系にて在野の声楽家(集まってくるのは東京藝大、国立音大、東京音大、桐朋音大関係者が多い)に、催し物的なコンサートをも含めた活躍の場を創出している貴重な存在である。更には、活動の一環で本興行オペラ公演(少人数編成にて室内楽オペラと自称している)を「クオーレ・ド・オペラ」と銘打ち平成25年よりマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」プッチーニでは「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」、ヴェルディでは「椿姫」などをなんと年例公演として行うことができている。「なんとできている」というのは個人ベースが主催者(興業元)で行うのがいかに大変かという意味を含む。

私は幸い練習から本公演まで創られてゆく模様をつぶさに見る稀な機会を得た。演目選びと出演者(歌手・演出家・稽古指揮者・本公演指揮者・稽古ピアニスト等)の選定は主催者の専決事項であり、力量が大きく問われる。当たり前だがその筋の人脈が相当ないとできない。それが理解できると改めて常設のオペラハウスとは凄いものと痛感した。あとは予算組との闘いになる。主催者いわく収支の達成は券の売れ具合次第で外れたら相当な赤字をかかえる。いわく日本のクラシック音楽関係のへの政府系からの給付は対ドイツ・イタリアの数分の一位で、何と韓国より少ないとのこと!その少ない資金が文化庁などを経由して各プロオーケストラ、声楽関係だと新国立劇場・二期会・藤原歌劇団などに額はまちまちだろうが割り振られる。その少ない予算でさえ赤字財政の折柄絞られがちとのこと。

私は主催者に演者のギャラ、売れる切符の価格設定について真剣に質問したが、売れているポピュラー系に比しかなり割安の感を否めなかった。結論を大雑把にいうとこの業界(特にプロ声楽家)ほど演者が自分にかけてきた労力(歌詞の記憶も含め)と得られる経済的果実が乖離しているものはないと!救いは高額な楽器(バイオリンとなると億円に達する)を買わなくてもよいことだが、練習というかメンテナンス(年齢相応のマイナーチェンジが不可欠だ)を怠ると劣化がてき面とのこと。話を小転すると毎年全国の音大(音楽課程)を卒業する人々が多数おり、その一部は大学院にすすむ(プロ演奏者として自活するにはやはり院に行くのが望ましい)。もっとも安定性を求める人は教員(小~高・大学)になることだ。その他プロの演奏者への見込みのない人は全く関係ない仕事に就く人も多い。

プロへの見込みがあり更にオペラ歌手を目指し認められてゆくには私の考えるところ次なる一定の条件(関門を超えるには)が必要だ①歌の実力自体(気力・体力・精神性・言葉の記憶発音力)②薄謝の中でも生き抜いてゆく覚悟③人間力的バランス(多少の社交性を要す)。しかし実際は前記が十分に満たしてはいないが、思い捨てがたく継続し最終的には諦める(筆を折る)人々も多くいよう。

最後に「音楽」における「歌」とは何かの根源性を私なりに定義づけてみた。もちろんなくても生きてゆけるものである。「音楽」は一般大学の受験科目ではないのにずっと授業がある。ということは必要であるからだろう。何故か?音楽は情操を形成してゆく上で不可欠で、特に「歌」はいつ如何なる時でも(自らを楽器として)口ずさめ、個人また集団の心の中心・核となりえ、鼓舞する力ともなってゆく。更には一瞬にしてその場の人々の心を捉えることができる。それは音楽の中でも「言葉」を含むという特質のたまものであると私は確信する。