人間 ― 不可解な生きもの

墓地は遺産・財産?

「墓地は遺産・財産か?」との尋ねには「そうでしょう」が普通の答えだろう。本稿では少々うがって考察してみる。まず民法897条によると前提を祭祀財産とし「系譜、祭具および墳墓の所有権は慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する。ただし被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する。慣習が明らかでないときは家庭裁判所が定める」とある。現民法の骨子は概ね百余年前の明治時代の制定で当然現代とでは意識的なズレは多々ある。

まず系譜=家系図などは滅多にお目にかかれない。私は自身の両親の相続手続きを既に当事者として行ったが、その手続きの中で税理士や司法書士が戸籍謄本等の原資料より私製の家系図を作成し添付(相続人確定の意)する。しかし往時、家系図は本家の象徴として相当な位置を占めていたと察しがつく。

知人の土肥さんが巻物のような家系図が父の実家にあるといったので多分その元祖は源平時代の土肥実平なのではと私は述べた。実際江戸時代前後には偽(捏造)家系図屋がかなりおり、それだけ先祖の「ハク・貴種」というものが重要視されていた(現代はそのハクは無いよりいい程度)。次の「祭具及び墳墓」だが、祭具は主に仏壇で位牌・持仏・お鈴・線香立など(最近は純金製の有り)で一式だが、重要なのは戒名・法名をしるした位牌あるいは過去帳で、拝めば墓参りの簡易な効果がある。ニューファミリー家庭でも、志のある人は本家の了解を得て同じ戒名法名を記した位牌・仏壇を設置するがここ迄は問題とならない。

ことが墓となるとそうはゆかず、維持には費用がかかる。境内地にあると原則檀家扱いとなるし、霊園でも年間維持費は当然、除草の手間もかかる。私は菩提寺(浄土宗)の檀信徒世話人(総代にほぼ同じ)をなんと36歳から20年以上やっており、広い意味では寺院関係者であるが、関わりあいを避けたがる現代風世相という前提にてうがった考え方をすると墓地は負の遺産といえなくもないという疑念がわく。そんな不道徳なと思われるがそうともいえる。現少子化社会では墓守りが不存在時、寺に何百万円という永代供養料を納めて数十年間面倒見てもらう選択肢はあるが、経済負担上厄介でそれこそ負の遺産化であろう。誰かが引き継ぎ守る、祀るというのは人類社会に広く浸透している文化だが、民族によっては自然に返すという意味で風葬・散骨(今は日本人もやる)をする。日本でも樹木葬を例とする骨を合葬・合祀するスタイルが主流になってくるかと予見する。

話を法律に基づく相続=財産分与に話を戻す。現日本では墓を守る人は多少多く実財産を取得してしかるべきという考えがある。前述手間暇費用がかかるので、当然だという良識的な見解が基にある。しかし「そんなの関係ない・法律が均分に権利を認めているのだから」という人も昨今かなり出てきた。これは一種の文化の変異であろう。民法では何も決めていないうちに当主(守っている人)が死ねば「慣習」にしたがって「主宰」している者が承継する(相続でなく)とある。「慣習」は民族・地域・家系・時代においてそれぞれ生きているが曖昧であり、よって争いがおきる。何にせよ私は不動産屋で、相続コンサルタントをも標榜する身である。親族間の争いは相続―争族―家族崩壊となるので無いにしくはない。法律は争いがあったらこれに基づけ、それでも納得ゆかねば裁判所の判断を仰げというものだ。又争っても法律通りだと負けるよという静かな抑止力の源泉でもある。相続のコンサルティングというのは積極的傾聴から入り、税法等の知識面を駆使して行うが、それだけではうまくゆくべくもない。最後は人間力がものをいう。よって日頃より知識のみならず諸方面の涵養を心がけることが肝心と改めて思う次第である。