人間 ― 不可解な生きもの

巧みにいつわるは

少々のいきさつがあり、生まれて初めて水戸の地におもむき一泊した。翌朝偕楽園に行く。10月後半という季節柄花はほとんどなかった。
ただ、この時期咲く珍種の桜を一本見た。偕楽園はおおむねフラットなつくりで池らしい池はない。那珂川に向かっての斜面を一部利用している。その斜面を下ったところにある白大理石の巨岩(しかも国産)をくりぬいたところからとうとうと水を湧きたたせている「吐玉水」の印象が強かった。

さて表題の言葉は「巧詐不如拙誠」(たくみにいつわるはつたなくともまことにしかず)を言うが、それは偕楽園の中心となる建物「好文亭」に付属する茶室「何陋庵」の腰掛待合のところに掛かる木札に篆刻されていた言葉だ。
これは徳川光圀が茶の湯に臨む心の一つとして残したものとのことだが、意味は額面通りであろうとの感だ。でも私は掘り下げて考えた。巧みに詐るとは何か?茶道に置きかえると、いわゆる職業茶人の茶匠がすいすいと恙なく所作をこなし、さも十分もてなしている風に茶事をすすめるようなことを光圀は想定しての言葉だろう。
すいすいやっていることが巧く詐っているという意味とは当然等しくないが。すいすいやっていてしかも心がこもっていることもあるはずだから!
重点は拙くとも誠に如かずの方である。これを言いたかった訳は想像するに、当然光圀は職業茶人ではなく、よって前述すいすいではなかろう。でも自分は茶席に臨むにあたっては誠があるぞとの自己肯定、或いは余り巧くないことへの負け惜しみかも(失礼!)。

またこんな推量もした。彼は殿様であるから客は大概目下のものである。逆に光圀が客になっている時、亭主は家臣及び地元有力者たる商人や大庄屋クラスであろう。よって、自分が客でいてもいわゆる「ビビるなよ、順序がちょっと違っていても心に誠があればよいのだ、粗相をとがめたりしないから、自分もたいしたことないぞ」という意味もあるか。そんな想いを勝手にめぐらしてみた。

巧みに詐るとは!現代社会というのはひとが巧みにいつわることに無意識化されてきている時代かもしれない?大半の大手飲食店のマニュアルも一種の巧みにいつわるテクニック集かもしれない。味は本来ごまかしてはいけないが人工添加物などの使用は仕方ないところだ。その大手ファミレス・居酒屋やホテル等の接客を本当に自然に何の抵抗もなくやっている人がいるとしたら無私の境地に達しているといえるし、巧みにいつわっている内に本当(誠)になればたいしたものだ。

前記は一例だが、友人・家族・社員間にても大なり小なりいつわりあっておりそのいつわりを皆わかってわからぬふりをしているのが人の世だろう。
現代はイメージの時代である。つまり良いイメージをうちだせた者が優位性を保てる。実体とイメージがその通りなら何の問題もない。普通は良いイメージを他者より持たれたい。そこには必然的に巧みにいつわるテクニックが要求されてくる。女性の化粧もその一種だろうが、それは悪く見られたくない(実際悪く見られると損だ)というレベルか? 最近はビジネスシーンでも良いイメージ(男性でも身のこなし、服装、言葉遣い等の良い見せ方)に関するノウハウ本刊行やセミナーも盛んになってきている。ビジネス上それらを具現し練達された人はきっと高額な報酬を得ているに違いない。

昔の人は自己防衛上やむなくいつわることが多かったかも知れないが、現代はいつわる手法が豊富になり、人々はいつわられたふりをするのも巧いのではという稀有な特性も見える。つらつら述べたが人間社会の進化の結果巧みにいつわり、いつわられることにつき未曾有の領域に踏み入ってきたのではと思う。