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エッセイ



必要悪・善



必要悪という言葉がある。世の中でものごとが進む前提において「これ位のよろしくない事」は起きるし、あるのは当然だという意味だ。では必要悪の事例は何かと考えると代表例は「袖の下」だろう。もらった方は何かしらの便宜をくれた方に計らうわけだが、公平性・公明正大という見地からすれば反則だが、程度により他者に迷惑がかからないならお互い良い。幾ばくかのお金が潤滑油でものがうまく進めばすごくいいともいえる。
似たような伝統的な言葉に「付け届け」がある。ニュアンスとしてはこっそり置いて帰るような感じで、元々寺の慣習から出たような気がする。
また言葉は使いようで学校の父兄に要求する寄付金は堂々たる袖の下であり、場合によっては子弟の立場を左右するものもあるらしくコトは深刻である。売春は当然非合法だが微妙なものがある。現代ではやる方はどうしてもお金がいるのでやるのが普通であろう。昔は親の借金のカタなどで自分の意志とは関係なく「苦界に身を沈める」ことも多かったろう。その中で太夫になって栄華を得た例もあるが、売春はそこに需要があるので成立する商売(行為)であるだけに、いわば必要悪と言えよう。往時自由恋愛がほとんどない時代はことさら、男性の欲求をその場の金銭授受でみたすのは世の中のガス抜き機能という点では有為と言える。
究極的な「必要悪」は遭難・戦争などで先に死んでしまったひとから「ものを剥ぎ取る」行為であろう。自分が生き延びるのにどうしても必要とあらば神も「必要悪」と認めるだろうし、そうでなければただのもの盗りである。
では逆に「必要善」なる言葉は使われないが、実のところは多々ある。誰かがつまづきそうな穴を事前に埋めておく、ひっかかりそうな釘を抜いておく等々がそれにあたる。皆が黙ってそのちょっとした「必要善」を自ずとできればそれはよい世の中になることだろう。
また「惻隠の情」という難しい言葉がある。簡単にいえば、一般人が最もやっているのは「落ちましたよ」と教える、他人の畑から大根などを盗んでいるやつに出くわすと「何やってんだ」と見咎め叫ぶようなことだ。極端に考えるとものを落とした人が困ろうが他人の大根が盗まれようが私にとっては関係ないと言ってしまえば成立しない。でも教えても損する訳ではないといった最低次元にて成立するのもあるし、溺れる人を助ける、もっとだと線路に落ちた人を助けようとして自らの命を落とすということが実際ある。さしせまった「必要善」である人道上の緊急救助・復旧活動は人種差別・損得を超えたところにあるのがもちろんである。
人の日常において行う「必要善」行為の理想は恩着せがましくなく「さりげなくやっておいた」が理想なのだろう。お節介にすぎたり恩着せがましいと「うっとうし」がられる故、人の世はとかく難しい。「不必要善」なる言葉もあるそうな。
ある人(白楽天とも)が仏法の奥義はいかにと有名な僧に尋ねた。答えは「諸悪莫作・衆善奉行~しょあくまくさ・しゅうぜんぶぎょう」=「悪いことはするな・善いことだけをするようつとめろ」と。尋ねた人は「何だそんなことか、そんなのは三つの子供でも言える」と言ったら「言えるだけなら言えるが、徹するのは八十の翁でも難しいよ」と返され窮したとのこと。
善と悪の認識の境目は生活文化の中で人々が決めるものにつき、ある意味分明ならざるものがあるといえよう。
  (人間不可解な生きもの~三十五)
*連作エッセイ、「人間不可解な生きもの」は同人誌「千本銀杏」(休刊)から続いているものです