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エッセイ



共通言語・話題



共通言語とはもちろん日本人同士であれば日本語(方言含む)および日本語化されたカタカナ語であり、当然のように日本語にて会話はすすむ。その中で相手がわからない言葉を使うと問いただされ、他の言葉に置き換える。仮に相手が外人でこちらが未熟な英語での会話だと、問いただされても置き換えられずに窮するだろう。

「話題」というのは共通言語の重要な構成要素だが、共通の知識(経験含む)がまったくないとすっきり通じない。例えば顔を知っている程度の人とパーティの円卓で隣り合わせ、何をしゃべろうかという時まず共通言語となる話題を模索するだろう。便利なのが共通に知っていそうな人のことで、しばらく話をつなげる。意外と難しいのがご近所のお互い顔は知っている程度の人と歩いて行く方向が一緒になった時である。時候のはなしは真にそういった時のために存在するといえる。またそういう人とすれ違った時に「どちらまで」というのはブスッと会釈するよりはいいというレベルでいわば世の中の潤滑油であろう。例えば千葉の人だと「東京迄」といえば「え、銀座ですか新宿ですかそれとも上野?」と追及する人はまずいなかろう。

困るのは本当に共通言語・話題のもてない人がいることである。極端にいうと持っている「語彙」が違うのでその人のレベルの語彙に合わせてゆくことになる。ぴったりした語彙を使わないと同じことを表現するにも文字数が多くなる傾向がある。語彙の量は人によって本当にレベル差があり日常会話で使えるものでも2倍以上はゆうに保有量が違うと推察される。三島由紀夫は子供の頃から辞書を読んで覚えてしまったという。また語彙の延長上に「たとえ」がある。うまい「たとえ」引用するとすっきり合点がゆくし、結果、会話量(文字数)が少なく済むことは事実だ。

また同じ畑の人は状況を把握しているので短い会話で伝わるが門外の人にうまく話すにはよほどかみ砕く必要があろう。万人の共通言語たりえる法律条文は一般人が理解できることが前提なので、よく読みこなしてゆくうちに解るはずだが、専門用語・業界用語はわかりづらいか理解不能だろう。また符牒は逆に一般人に判らないようにしているわけだ。同様なことが畑(フィールド)をたがえる人々との間には起こる。日常会話においては知的レベルがその基準であるが、あまりに通じないのは生存領域が違うのであろう。

会話を続けるテクニックに軽い質問形式をとることがあるが、質問の連続には限度がある。こちらのことも織り交ぜてゆかないと嫌がられる。最近気が付いたのはこちらの質問、例えばABどちらかを聞きたいときに頭のいいひとは余計な注釈はいわずそのABのみを答えてくる。頭が劣っているか中途半端な人は却って余計な注釈を言う。つまり○×式を記述式で答えてきたり、穴埋め問題の答えの下に注釈を書いてくるような事をする。またこちらが「わかりました」と言っているのにくどくど補足注釈してくる人も鬱陶しいものである。

昨今のインターネット社会の隆盛、とくにSNSと呼ばれる相互通信コミュニケーション手段は手紙の延長上のものだが、やれライン、ファイスブックとしげくなっている。発信手段が多いのは本来よいことだが、ややもすると得た情報は安っぽく、ありがたみは少ない。苦労して得た情報こそ身になるものであろう。しかし、それらがなければ夜も日もあかなく思っている人々が多いのが現実で、便利な反面実際はすごく振り回されているはずだ。素晴らしく真っ当な意見、有益な情報を発表できる場が現出したうらはらに、塵あくた以下の愚にもつかないものが大量に発信・累積され、極言すると大気汚染化されているのは人類社会の末期の前兆なのではと大いに懸念されるところではある。