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エッセイ



庭いじり・木をきる



私の家は市川市八幡五丁目の一戸建てで幸い土地は約百坪とまあまあ広い。建物は昭和四十九年築の亡き両親名義のものを相続し、今は妻と住んでいる。土地は地主の相続の関係で平成二十年私が四十七才の時、底地を買い取り晴れて所有権となった。
   
となると、気分が変わりそれまで庭いじりなどしたことがなかったが、ゴールデンウィークに急に庭をいじってみたくなった。

当家の道路は北側のみで、南側の庭は隣家に囲まれ、ほとんど他者からは覗かれない。実は昔畳三枚程の池があった。私が中学生から大学生の頃、よくポンプの清掃などをしていた。当時田中角栄の影響もあってか錦鯉がはやり、三十匹位は常時泳いでいた。その後父が脳梗塞で倒れたのを機に池を埋めたが、庭は池を囲む構造で東南の端には池の水をポンプでまわして滝壺とする小さな築山がある。その築山の滝口より池への経路には御影石の割栗石が敷き詰められているが、まずその下の永年堆積した土を除去してみた。続いて縁側先の犬走りに敷き詰めてある小石の下の泥をもやってみた。私は正直常人より体力・運動神経が劣っているので、いっぺんにそうはできない。前述の作業を口切に、以後お盆・年末年始・ゴールデンウィークとまとまった休みの時にちょっとづつ庭いじりを続けてゆくと気付きがでてきた。「草とり」を本気でやると草の根はすごく、特にどくだみは根が土中で横につながって殖えてゆくことがわかった。その根のところを細いもので掘ってスーッと抜くようにし、地下で横につながっているものは一連的にとってゆく。でも根は完全にとれていないだろう。「根こそぎ」とは言うが完全な根こそぎなど絶対にできないことが分かった。最初の頃、すぎなもその要領でやったら今はほとんどなくなった。そんなにしつこくない植物なのであろう。近年つる草がいやに目立ちはじめているので今年はその根をマークしたらおそろしく繋がっており、古いものはすごく太い。そこから支線のように地上へと延びてゆくのだ。そしてドクダミが生えているところにそのつる草の根が潜伏している感じでどうやら共生関係があるらしい。あと、今は笹が徐々に版図を拡げている。これは相当やっかいと感じる。かように植物によって生命力の強弱に大きな違いがあることを自ずと学べ、いろいろな気づきを得た。

あと、最初の頃木を眺めまわしてみた。そして木とは何かを考察してみると、その「種」たる存在に、成長に要した時間が加わってきた結果のエネルギーの貯留だということが言える。木は当然すぐに大きくならない。時間をかけ土中より養分・水分、空中より酸素・光を摂取して形成されたて、現にある状態はエネルギー資源そのものである。よって燃焼する。木をきるということはその継続してきた時間などの流れを遮断することである。一定の強度を持つ木をのこぎりできる行為はなかなかにエネルギーを要することが判った。

それらをふまえ、根本的にない方がいい、あってもなくてもいい木や枝さらには多年草の判別に気持ちを絞ってみた。いらない状態とは何となく他の枝葉と重なっており、どちらかをきると空気と光の通りが良くなってゆくということだ。かりそめにも生えている=命あるものを断つわけである。しかし、この間引きをしてゆかないと新しいものがのびてゆかない。また新しいものがのびてゆくとは古いものが駆逐されるという極論に達する。しかし、古いものの除去は植物においては人為的・強制的に行う必要がある。

飛躍するが現代社会の少子化は、古い枝が茂りすぎている高齢社会のうらはではないかと思う。植物でも生物でも大いなる天の摂理のバランスに反すると衰退・滅亡することになるのであろう。