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エッセイ



「あきらめ」について


以前の起稿時、はたと気づいたことがある。大事なことのポイントをあらわす「要諦」の諦の字には「諦観」という言葉に代表される「あきらめる」の意がある。それを辞書で確認すると「あきらめ悟ること」と「本質をはっきりみきわめること」ともあり、更には「諦」は「あきらか」の意で「あきらめる」の意で使うのは日本に於ける用法とあった。
よって日本文化にはその根本にあきらめるのは良い事(高度の次元~無私につながる)だという思想があると仮説をたててみた。その基底には多分「無常思想」があろう。私に深い知識はないが仏教上の無常観、最後は無になる、この世自体は空であるなどがすぐさま思いうかぶ。

「諦めるのはよい事」の反対は「あきらめずにやり遂げるのはよい事」である。それは「不断の努力」「あくことなき執心のたまもの」であり、日本文化でも一つのものを成し遂げることは当然よい事とし「道」につなげている。
近年、特にアメリカ的目標達成のノウハウがすすみ、またビジネスでは評価主義が主流(年功序列主義がくずれつつあり)になってきたので「あきらめるのはよいこと」は逆に理解不能という人々が近時日本でも多くなっているだろう。

「あきらめるのがよいこと」とは身分制度が大きく立ちはだかっていた時代は、多くの民衆は無能であり「そんなもの望んでも無駄だ、さっさとあきらめて今、目の前にあるものをやることが利口だ」という現実的な考え方が主流だったからであろう。
現日本では身分社会はほぼ完全に消滅した。ある意味キリスト教的「神の前では皆平等」がほぼ実現したいい世の中である。私の浅学的見地では明治維新~新政府高官の出自は士分時代の身分は低い人が大半で、その人々が構築した帝国大学や士官学校を出られれば(そういった頭があれば)今では死語の「末は博士か大臣か」をごく平民でも可能にした社会システムが結果的に成功したと思われるからだ(それでもしばらく旧藩閥などは当然あったが)。
第二次大戦敗戦後GHQ主導で急速にアメリカ型の考え・制度・手法が導入された。その導入を巧く利用でき、昭和五十年代の未曾有の繁栄を得た日本をアメリカはそら恐ろしくなったことだろう。はからずもバブル勃発~崩壊により低迷を余儀なくされているのはある意味総エネルギー量のバランスからみれば当然といえば当然なのかもしれない。

私は昭和三十五年生まれでこの原稿執筆時五十三才であり、もうそう若いとは言えないが五十年代の高度成長・バブル勃発も知っている。その崩壊以降達成主義が致し方なく主流となったのはよく考えると皮肉なことである。飛躍するとその最終果実は「マネー」であり累積過剰な現今、この地球が「マネーの毒」に冒されているのは必然の成り行きである。よって「マネー」によって自らの死命を制してしまうのが見えてきたわけである。付け足すと私よりもずっと若いバブル崩壊後世代が「ゆとり教育」遂行の洗礼をうけてしまったのは何とも背反的で皮肉である。

年功序列型社会は農耕主流文化との近似性もあろうがその中で大多数の人々は黙々と頑張ってこられた。現在日本でもその成果・考課主義が主流になったことにより気を病む人が増えてきた。私の同世代の市役所の職員が、十人中二人位頭がおかしっぽく(鬱っぽく)なった経験があるともらした。
あきらめながらもほどよく頑張り続けられる国民性の日本においては諦めるのはよいことという考えは世の中のバランスを保つための一つの有効な手段であったのかも?はからずも、いにしえの先人はこの日本民族のDNAの特質を感じ取っていたのかと思うと感嘆しきりである。