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エッセイ



興味あり


 
以前に「興味がない」という題目で出稿した。その中で興味がないのは得意じゃないのとほぼ同義だとした。うらはらに興味があるのは得意なのだと定義した。興味があって且つ得意なものは根底に蓄積があるので理解力が高く、関連項目について覚えるのも速いし確実である。更には着手しやすいし(足が前にでる)、はかどるものだ。

得意じゃないものは苦手で解らない分野なので(理解力が低い)程度はあるが、わかる(できる)気がしないことさえある。まれに食べ物にも興味がないという人がいるが、半ば味音痴なのか、お気の毒に近いものがある。

興味とは好奇心の類似と仮定して考えた。人によって好奇心の対象を深く掘り下げるひとがいる。近年世の中で一般的な言葉になってきた「オタク」という人種はそうであろう。「オタク」とは面白い言葉だが、家の中でその興味の対象にかかわるものをコレクション(物的・情報的)をしているからである。

でも世の中というものはそのオタク族(学者もそうである)が掘り下げたいという意志のもと、いわば探究心によって進化(深化)させてきたようなものだ。日本人は特にそういった傾向(既存のものに改良を加えてゆくなども)が強いといえる。

不肖この私は興味の対象(好奇心)が多い方といえる。これは一般的には良いことではあろう。興味は興味を呼びやすい。でも実は欠点でもある。対象が多いとパワーが分散しやすく、ややもすると集中力を欠くことにもつながる。絶えずあちらこちらをつっいているので、一事に於いて大成しない惧れがあるということだ。

よって世の中全般への興味・好奇心は薄いが一事に於いて深耕する「オタク」型の人の方が本物の成功者になる確率は高いと思える。例は日露戦争が終わったことをしばらく知らなかった長岡半太郎などだ。

器用貧乏という言葉がある。器用なひとは何かとものの要領を得るのが早いので、不器用な人がすごく苦労して習得するものを、より早く一定に達してしまう。たやすく得やすいというのは失ってもさほど惜しくないというのと背中合わせだ。よって職を変えたり(何とかなるという気持ちがあり)もし会社を経営していたら多角化をしたりする。

しかし前述「深耕」という点で未成熟感がどうしてもあるので、最後は貧乏(失敗)という結果になることもままあるか?

仮に「一事貧乏」という言葉があったら器用貧乏の人とどちらが幸せなのかは本人の心次第だが「余念なく達した」という気持がもてれば「一事貧乏」の方が幸せかも。逆に「器用貧乏」の方はいろいろなことをやれて面白かったよと云えれば幸せだろう。

こういう仮説も考えた。興味あって好奇心強いーオタクや~バカとよばれる―探究心が固執化するという段階を踏むのではと。その先に「~ボケ」という究極の固執もあるのでは?俗には色ボケ・欲ボケなどがその最たるものだろう。

また最近あまり使われなくなった「ご執心」なる言葉は固執の類義語といえる。使用例は「~屋のダンナは~楼の貞奴ちゃんにいたくご執心のようだネ」とかだ。「ご執心」はコレクターがどうしてもある品物を得たいがために金だけで済めばたやすいが、人様の手中のものを手管を使って得ようなどという次元が行き着くところか?

「~ボケ」などと云うのはその執心によってわきが見えなくなってしまうことが真骨頂であろう。「~ボケ」の状態に至った人は幸せであり、強いかもしれない。それによって迷惑をまきちらさないという前提においてである。

しかし、何事においても冷静・客観であり、のめりこまずそこそこな人に面白みは少なかろう。何かにのめりこむほど(いわば究極の興味)凝る人の方がそこそこでいいという人より楽しみ勝ちなのではという感をも持った。