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エッセイ



よくできたはなし(逸話)


 
最近至極なるほどというはなし(逸話)を目にした。江戸時代の「渡世伝授車」という説話集のひとつであるが、播磨国に鳥を投網で獲る猟師磯八がいた。

腕に相当自信があるのであろうか、自分の業をもってすれば藩指南役の剣術遣い杉杜神右衛門殿でさえ投網をもって捕らえられると自慢噺をしていた。それがその指南役の耳にはいった。小癪なことを言う、連れてきてもしできなかったらただではおかぬぞとなった。

磯八は連れ出され「その方の口上相違ないか」と質され「相違ありませんが口がすべったこと、どうかご容赦を」と平身低頭した。指南役はおもしろい、立ち合ってその業とくとみせてもらおうとなった。磯八はしぶしぶ応じた。指南役は木刀をもったが、磯八はならば真剣にてお願いしたいとした。指南役は逆上気味でもし斬り捨てることになっても異議なき覚悟であろうと念をおした。

磯八は「私とて鳥を捕るに油断があれば取り逃がす。貴方様も木刀にて傷まぬようにとなれば心が緩まれる。よって真剣にてお相手を」と応えた。結果は一間先より指南役が地を蹴って掛かってゆき、磯八は斬られたかにみえたがひらりと身をかわし、さらに飛び去りながら網を打ち相手を引き倒した。当然指南役は今一度更に一度となったが結果は同じだった。

ここで私がなるほどと思ったのは木刀でなく真剣を所望した点である。そして磯八の最後のセリフ「お心を鎮められたい。何度やっても同じこと。私、若年よりこの業をみがき、みすぎとし妻子をも養っております故、五寸にみたない飛ぶ鳥を捕り逃がすことはまずありません。まして五尺に余り、飛ぶことがない御身を打ちはずしては、雀など捕れるものではありません」だ。

私なりの解釈だと人間は住む世界・持っているフィールドがまったく違うもの(異次元にある)だということだ。これは以前にも述べた先入観や偏見とも関わってくる。指南役からすればその鳥猟師は卑賤の者であろう。よってそんな者に正当な藩指南役の自分がやられる訳がない。

自分の方が上に決まっている、しかし磯八の業ははるか陵駕していたというのがその要点だろう。事実居合わせた一同はこの一言に納得のあまりどっと笑ったというのが話しの結びだ。

いま一つ。千利休晩年の名声は絶頂を極めたのは周知だが、それを利用し道具の斡旋行為で余禄を得ていたらしい。実際利休の選ぶものは雑器より選りすぐったものを見出し(見立て)道具として使う能力にたけていた。ある人が一定額を預け「おまかせするので何かよいものを」と頼んだ。

結果届いたのは点前で茶碗を拭くのに使う山のような奈良晒の布巾であった。その人が「何ですかこれは」と怒って問い質したのは想像に難くない。

利休の答えは「点前で使う道具の中で清浄な布巾に勝るものはない」と。意図は貴方のレベル(目くら滅法に金渡して何かをという輩)なら多少気の利いた茶碗より余程意味があるということだ。依頼者はそれなりの人だろうに、利休の無礼というかイヤなやつぶりは往時の権勢をしのばせてさもありなんというところではあるが、実話かどうかは疑わしい。しかし、はなしの意図はなるほど真実である。

紹介したいのは多々あるが、よくできたはなしには元になるものがあり、それに「なるほどな」と万人が納得しうる真意を付加し脚色して形成されるのではと思う。心より納得できたはなし(逸話)は忘れ得ぬものとなる。どこかにある真実と他のどこかにある真実(複数の)を結びつければ虚偽(つくり話)であっても実際のできごとより真のはなしとなるのだから人の創作力というのはげに面白い。

ギリシャ神話などの時代より時も場所も変わり、かくも科学技術が進歩しても人間世界の真の真実(心の中にある)はほとんど変わらぬものなのであろう。