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エッセイ



「差別」について


 
いったい人という生きものは差別をすることが得意である。自分と他人、他人と他人、モノとモノなどのそれぞれの差別・比較が多岐に及ぶ。

差別の根本は自分の優越性を確認することであろう。単純なものは「おれはあいつより背が高い」「金もっている」「いい学校でている」などだ。中には単に自分は「知っている」、あいつは「知らない」という至極浅はかな差別・優越感もある。

「出自・門地」のように自分の力ではどうにもならないものもある。それらに悩み遠い場を求め旅立った人も多かろう。 何かにつけ勝手に差別をし、優越感を生じさせ楽しんでいる人がいるが、差別しているのにしている意識がない場合は多い。

逆に差別を受けた側は敏感である。「優越感」の反意語である「劣等感」にさいなまれる。それが適当な場合と過剰な場合がある。同じ人であっても時によって違う。また、同じことを違う人にいわれるとすごく差別されたように思うから厄介だ。中にはほめたつもりが逆にとられる場合もある(嫌味だとかとぼけて言っているのかとか)。

同じ人間の中にもあることに対しては優越感を持っているが、他のことに対しては劣等感のかたまりの状態がある。

例えばものすごく勉強ができて一流大学にストレートで入学する頭の持ち主で、勉強に対しては前者だが女性に徹底的にもてないとなると後者に陥っているかもしれない。ただもてないなんていうのは本人が一向に気にしなければよいことだが、いかなる天才秀才といえども全くその気がない人は少なかろう。

かように陥ってしまっている人は反対側の人に対しどこかでカタキをとろうと心密かに狙っていそうだ。フロイトの深層心理学などはそういった点に深く着目している。とにかく差別・偏見の具現などは人間の性(しょう)の真骨頂であることは間違いない。

動物の世界にも多数の差別はあろう。猿山にも差別され、萎縮している猿はいるだろう。ライオンの群れでもありそうだ。もっと頭脳レベルが下がっているヌーの群れの中などは私には分らない。

でも動物は強い個体が、気に入らない弱い個体を引っ掻いたり噛みついたりして追い出しにかかり、その弱い個体は群れを離れた結果、死んでしまったりする。人間界は暴力行使もするが、冷たいやり方で弱い個体をドロップアウトしにかかるので性質(たち)が悪い。

「ルール」は使い方によっては差別の手法となる。「ルール」に従わない者を疎外し差別してもかまわないとの暗黙の了解がある。差別された側もやむなきと認める(仕方ないというレベルで)のだから都合の良い手法といえる。

ただ「従わない」方には「従えない」理由はある。肉体的・生理的(精神的抵抗感が強いのも含)に不可能に近いとか・・・ ともあれ結果的に従わないと処罰されるか、場を去ることになる。

思へば人の世の争いのタネの根源は自らが生じさせた「差別」とそれによる偏見によることが多いことか。