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エッセイ



してもよい・心のゆらぎ


 
「~してもよい」というのと「~しなくてもいい」というのは類似した背中あわせのものである。

例えば「会ってもよい」という背後には「会わなくてもよい」という意味(どうしてもというほどではない)が含まれているだろう。でも面会予定者Aの名を出した人が「会いましょうよ」と強く云えば「そうですね」ということになり会うことになるだろう。

とにかく人の心及びその行動決定には「ゆらぎ」がある。「ゆらぎ」は迷いとも云えるが、そんなレベルでないものもある。例えばスパゲッティのメニューを見ていてナポリタンかミートソースか迷っている時、相手がナポリタンといえば「ああ私もそれでいい」なんていう他愛もない「ゆらぎ」がある。

「会う」ということに絞ると「すごく会いたい」「会いたい」「会ってもよい」「会いたくない」「絶対会いたくない」というグレードに分類できるだろう。

「すごく会いたい」なんていうのは恋愛中の男女が代表だろう。忙しくともお互いやりくりして何とか会う。片方の気持ちに「ゆらぎ」が生じてそのやりくりに力がはいらなくなると恋愛も終わりに近づくだろう。完全なる要因があって「別れた」というのと、なんとなくうやむやになって「別れたような」になる感じがある。

「会いたい」なんてのはちょっと久しぶりで波長の合う友人・知人・取引先などである。ちょっと無理して会うかどうかはその時の「ゆらぎ」次第である。

「会ってもよい」というのは「どっちでもよい」というのが背後にあるので更に自分自身の心のゆらぎと外部要因が重ならないと会うことにならないだろう。気分次第でセールスの人にも会うし、更に雰囲気で本気で聞くことにもなる。

「会わなくてもよい」と思っているのに急にこられて会わざるを得ない場合も多々ある。それでも「ゆらぎ」の宰領でなんら会って損したとか、嫌だったという感じがしない場合もあるし、その全く逆もある。

「会いたくない」けど会わざるを得ないというのは結構多いと思う。相手自身が嫌悪でもないが、時間とって迄とか「会っておかないとまずいな」ということが大概である。最近私も時間の効率をだいぶ考えるようになったので、訪問のアポイントをとられるとその時間に居なければなくなり、他の行動が制約される。それが積み重なると結構馬鹿にならない。

よって「会ってもよい」から「会いたくない」に心の中で格下げしてなるべく会わない方向にもってゆくことにしている。

「絶対に会いたくない」というのは簡単でとにかく相手が嫌いか(いわゆる顔も見たくない)、会うと損させられてしまう可能性を秘めているなど何らかの強く都合の悪い要因が存在しているからである。都合の悪い要因を分析すると収拾のつかなくなるほどの理由がでてくるので今回は触れないことにする。

考えてみると「会社」というのは「会う・社」という位でこれはすごいシステムである。皆会社に属すると、朝起きてなんら疑念もなく出勤の支度をして家を出る。多少嫌なことがあっても会社に行く行為自体には有無がない。

もっともそれに疑念を生じてきたらその会社を一旦去ることになろう。加えていうなら一人ではたいしたことができないが「会社」というフレームを使うとそれなりのことができてしまうという、人間が作ったシステムのなかでも特筆すべきものである。

「心のゆらぎ」に話をもどそう。ことを起こすになんら迷いのない(ゆらぎのない)状態がある。なんら迷いのないのは何故か?直感的に良いと信じるのが代表的だろう。良いと確認する余地もない位強い思念で事を起こすこともある。

そういった時は大概失敗しない(間違っていない)ものである。考えに考え悪い要因を消してゆき更に推敲して決定し、ゆらぎのない状態にもってゆくこともある。碁や将棋の棋士が長考して指した手などはそれだ。

人は「ゆらぎ」という波動に支配され、必然・偶然の選択肢に翻弄されながら漂っている不思議とも不可解ともいえる存在だ。