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エッセイ



「満足」とは


  
満足する、満足したと人は思う。大きくわけて自分の行動や考えなどに得心し満足する場合と、他人やモノによって満足させられる場合にわかれる。更に云うと自分が相手なりにしてあげた行為により相手が満足していると感じ、自分自身も満足するパターンもある。

とは言っても、とにかく最後は自分というものが心の中で「満足」という感情をいだいている状態によって満足は完結する。 ある良いモノを買った(得た)場合、そのモノに満足している自分がいると同時にそのモノに満足させられている自分がいるわけだ。

他人に褒められ、認められて満足することがある。自分のやってきたことや、態度等が正しい・良いのだと他者より追認されたからである。その大前提は自分が良い・正しいと大概の人は思って行動しているからである。少なからず人はナルシストである。

中には特に自虐的な人もいる。過度なナルシストは滑稽であるが、多少あって然るべき(その方がうまくゆく)かもしれない。

芸術家等はある意味満足に向かって邁進している人種と言えよう。例えば画家は描きたい本画の構図をデッサンする。一通りやってみると何かおかしい。また描くという作業を繰りかえす。これならば一応満足という線までやってみて本画にのぞむ。油絵なんかは途中一部を削って修正もする。そういう作業を繰り返し、完成した絵は画家にとって満足した絵であるはずだ。

一方デッサンもそこそこに一日で仕上げてしまう人もいる。一気に仕上げて満足できれば達人の域であろう(細密なものは一日では無理だろうが)。但し完成した作品について常に満足しているようでは進歩が止まったようなものだろうが・・・

一般人の日常生活には意識しなければ「満足」に一日に一つも行き当らないことがあろう。起きてから寝るまで何事もめだったことがない限り「満足」という感情を抱かない日が多々であり、逆に「不満足」ないし「怒り」もない日も多々であろう。まあ通常人においては、後者がなければそれは良い一日であろう。(日々是好日といったところ)

満足の過度な追求は疲れをよぶ。満足できなければストレスになるからだ。大きな満足を得ても大きな不満足を抱えていれば、身を焦がされ、大きな満足の価値を減じてしまうであろう。現代の先進国ではその追求がこうじている。さしずめ日本やアメリカなどはその最先端であり、猛追撃をかけているのは中国か?

「満足」できなくても「仕方ない」とあきらめモードの場合はよいが「不満足」な状態になった時、そのエネルギーを他者にぶつけることが多々ある。例えば民事の裁判などは自分の不利益(不満足)を訴訟行為というフレームを使って他者に移転を企てるシステムのようなものだ(日本においても訴訟件数は増えている)。そういった風潮・エネルギーがこの地球上に充満することを危惧する。

まあ、小さな満足を時々感じているのが凡夫の幸せというものであろう。不肖私は茶道にそこそこ手を染めた身なので、人にそのことを話すとよく「侘び・寂びの心ですね」と言われる。
侘びの心というのはよく「足らざるをもって足るを知る心」という一言でよく表現される。そういう小市民的なことじゃいやだという人は「燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らん」と嘯いていればよい。

森信三という人の語録に「すべての悩みは比較するところより生ずる」とあり至言と感じたが、「不満足」の発生もそんなところだろう。

私の家には犬と猫が一匹づっいる。いずれも多分満足して生きていると思う。彼と彼女も不満足な感情を持つことが当然あろう。その不満足な場(時間)を通過してしまえば満足も不満足もない状態に戻り、長く持ち越していないことだろう。

いずれにしろ、人間は余計な「不満足」のタネを勝手に作ってしまう不可解な生き物だ。