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エッセイ



「嘘」についての考察



前回、人は嘘をつかない日はほとんどないと書いた。とにかく人間は手の込んだことをする生きものである。

法律用語で心裡留保(しんりりゅうほ)とか意思の欠缺(いしのけんけつ)というのがある。心裡留保とは「真意と矛盾することを承知のうえでした意思表示」と定義されている。 意思の欠缺とは「真意を伴わない名ばかりの意思表示」と定義されている。

例えば、あまりにしつこく結婚を迫られてつい良いと云ってしまい、その気になった相手が指輪を買ったり新居の手当てなどをした結果、あれは本意ではなかっと覆すとかだ。「結婚してもよいです」というのを心裡留保ととらえれば相手に対し有効なのでその支度に要した費用の損害賠償の請求の余地がでてくる。

また、意思の欠缺ととらえれば原則として無効(無効が認められない場合もある)なのであなたが早とちりで動いたのでいくらかかったなんて知ったことではないということになる。法律上のたてまえは、善意の第三者に対抗できないと定められてはいる。でも、その相手方すら本当に善意(わかっていなかったか)かどうかを好・不都合により使いわけているかもしれない。

とにかく人間は手の込んだことをする抜き差しならない「不可解な生きもの」であることか。 ついでに書くと結婚詐欺(嘘の一種)なんぞは、私にはやる才能は無いと思うが、自分の筋書き通りに相手が動き、普通肉体もお金も奪ってしまうのだから、うまくゆけば面白くて仕方ないであろう。

一方だまされた側も恨む(告訴などする)パターンとなぜか憎みきれず、それはそういう思い出として受忍してしまう(告訴などしない・しかし別人が告訴して連件で加わる場合あり)パターンがあるようだ。以上はしょせん週刊誌などで読んで私が思っている範囲のことだが。通常の男なら(女がやる場合も当然あるが)なにやらあこがれに近いものをもつのが結婚詐欺かもしれない。

また、こういうこともある。記憶が曖昧になっているときで、「多分そうだった」ということを人に尋ねられ、「そうだった」とこたえたとしよう。次に同じケースを同じ人にでも、他のひとにでもよいが、別の機会に「そうだった」とこたえたとする(二度肯定したことになる)。すると人はそれが本当のことなんだと半ば自己暗示をかけて自分のなかで「そうである」と事実化してしまうのである。

「そうでない」となると嘘をついたことになるので、自分を正当化せざるをえないようになる。
また、わかっているのに「わからない」とか「記憶にない」というのは実に便利な嘘である。はっきり云わないほうがお互いに都合がよいことも多々ある。人の頭の中まで覗けないのだから。

余談になるがカナダのトロント大学の教授が自分の考えている事象を装置をつけて記録する研究をしている。その教授は自分でその装置を毎日何時間か付け、機械につなげて脳波を信号化し記録をとっているという。何か神の領域に踏み込んでいるようでおそろしいことではある。

とにかくそれら妙な且つ高度ともいえる芸当を人は行う。
他の動物ではそんな嘘はつけない。カモフラージュや仮死、カッコウの托卵のようなことはあるが。
実に嘘は人が極度に進化した証である。人間とはその脳内で嘘と本当の境目を行き来している不可解な生き物であることよ。