ホームLinkIconエッセイLinkIcon エッセイ 2011年11月号

エッセイ



しらぬが仏


 
現代社会は情報が氾濫している。人はその渦のなかで生活している。

以前あることを調べようと思ったらどんなところでどんな本をみたらよいのかと悩んだものだが、今はパソコンを開きインターネットの検索エンジンというやつでキーワードを二.三併せて打ち込むとたちどころに「ウイキペディア」を代表とする事項が拾え、それが結構詳しいのである。

よってあることに対しその検索結果をしっかり覚えればにわか博士が登場するのである。よって一般人も前記インターネット情報をよく読みこなせば、スポットレベルではプロ顔負けの知識をもつ。つまり商売などは相手がネタをつかんでしまうのだから特にやりにくくなっている。

私はこう考える。不肖この私もこの近辺の世間では物知りの部類とみなされているが、でも冷静に考えると種種雑多に知っているだけの存在にすぎないと自省する。ものには段階があり、A単に知っている。Bわかっている。Cわかったうえでできている。という階層状態がある。

要は、本当はCでないと自らの行動に活かせていないわけである。「知っているだけでなんなの」ということになる。

今、某テレビ局の朝のワイドショーで「知りたがり」というコーナーがある。その部門の識者を司会者が「たすけて!わかる人」と掛け声でよんで解説させるという趣向だ。別に知らなくてもこっちは困るわけではないのだが、現今の時世を反映していると強く思う。

因みに同番組で「かぶりネタランキング」=昨日の報道で重なっている度合いを発表するのは野次馬根性極まれりの感だ。

話がもどるが、知らないより知っているほうが良い(有利)のは現実である。知っていないと(時事などは)非常識扱いされるだろう。私などは商売人なのでいろいろ知っていて人に話しを合わせられるというのは決して不利ではない。私自身、根が知りたがりなのでかなりいろいろなものを見聞きするが、今頃になって前述「だから何なのかな」などと自問をしている。

交渉・折衝をしていると、むしろ知らない方が強いという局面がある。知りすぎているとブレーキがかかる。「わかっていたらこわくて言えなかった」とか。「わかっていない」との背中あわせに「盲信」というのがある。

その人が盲信していることがあまり正しい知識でないとしても、その人からすれば絶対真実なので、他者に対し強い態度がとれるわけで、人からすると困ったものであるが、考え方によっては幸せな状態なのだろう。

私はこうも思う。「知らなきゃ知らないで幸せなんだ」。知らないでなにかされていても(あまり有利でないことを)知らなきゃどうってことなく済むことが多い。いわゆる「知らぬが仏」だ。

逆に「知るは患いのはじまり」という喩えもある。現代社会の情報氾濫は文字通り心を氾濫させ、人々の心を患わせている。現代社会は二言目には「情報の開示」といい、「説明義務」なる妙な言葉も生まれた。知ったところでどうなるのということが多々だ。

へたに知ってしまう・わかってしまうと必要以上に心おだやかならぬことになる。人間不信にもつながり、自らの心をおさめるのに大変なことになる。 善なることをやるのに旧来の日本文化においては「知らせないでやり完了させている」のが上善という思想がある。

でも現代社会は「有言実行」が主流である。知らされないでうまくやってくれている状態がよほどよいわけで、譬えれば名刀ですっぱり切られ気が付けば極楽往生が良しで、「鋸引き」などは真っ平ごめんということだ。

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