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エッセイ



絵画・誰がお好き(かけ足美術史)


私は絵画観賞が好きですというと「誰がお好きですか?」という質問がよくなげかけられる。

話しのつなぎ程度の問いなので深い意味はなかろう。よって「ルノアール」とか「モネ」ですというと「いいですよね」といった会話の流れになる。そこでよほど絵画の知識がないと知らない「ムリリーヨ」や「ファン・アイク」などと言ったら、しらけた空気になるだろう。

最近では「クリムト」や「フェルメール」などはかなりポピュラーなので、相手が好きならむしろ話しははずむだろう。だいたい画家というのは音楽室に肖像が貼られている超一流レベルの作曲家を比すとずっと数が多い。私は何故かと考えた。

理由としては単純には一定の水準に確立された歴史が古いことと、画家本人が描いた絵があるがままに残っていることが多い(後世の加筆や修復によってかなり変わってしまっていることもままあるが)ことに拠るだろう。今でも古い館などから忽然とでてくることもある。

作曲された作品はというとルネッサンス時代のものなどはまず楽器が現代のものと違っていることがほとんどで、アレンジし、現代の楽器で演奏できればよいが、どうしてもオリジナルの楽器でなくばとなると滅多に演奏されないだろう。

それでも大画家輩出の乾季はあり、セバスチャン・バッハ(念のためバロックはルネッサンスの後)が生まれた一六八五年と同時期の大画家はフランスのヴァトー(ロココの範疇に定義)で生年は一六八四年であるが、ちょうどそれをはさむ八〇年間ほどには、誰もが知る大画家の出生がない。

スペインのゴヤの出生は一七四六年とだいたいバッハが没する頃だ。因みに一定水準の確立の証左となるが、ラファエロの出生は一四八三年なのでなんとバッハの約二〇〇年前となる。

本論に話をもどす。絵画の変遷はごく近代迄宗教との結びつきが強い。なじみがあるキリスト教美術だとルネッサンス期以前はほとんどが宗教画でかつ題材が極端に絞られていた(キリストの生誕―磔刑―復活が中心)。ルネッサンスーバロックにかかってくると同じ宗教画でも題材が広くなってゆき、ギリシャ神話関係のものも多くなってゆく。

以後世俗的な人々の生活を描いたもの(自画像もでてくる・元祖はドイツのデューラー説強し)、風景・静物へと画材の対象は拡がってゆく。但し風景画は当初人がいるのが前提であったらしく、人のいない風景画の出現には多少の時間を要したというのは面白い事実である。

以後モネの「印象・日の出」という絵がネーミングの藁矢となった印象派は、光線とのかねあいにより輪郭線の微妙なぼかしや、画像に省略や抽象化を加えた。よって印象派は抽象画の萌芽という見方もある。そしてキュービズム運動を経てミロなどが代表選手の抽象画のほぼ確立をみるというのがごく大雑把な美術史の流れである。

ついでに私見を述べると現代抽象美術は思想・考え方・感じたものなどの何らかを二次元・三次元空間におしこめたようなもので完全に理解(同調)できるということは鑑賞者にはないのではないか?

最近は又、写真と見まがうばかりの精密な絵が少なくとも日本国内ではブームである。なぜそこまで超リアルな絵がいいかは私には断じがたいが、画家の高い技術(テクニック)にほれ込むのであろうか。でもそこまでゆくと写真と変わらないじゃないか(写真で沢山だ)という声がでてくるから難しいものである。

前述一連の時系の絵画の変遷があるなかで、冒頭の「誰がお好き」と同様に「いつ頃のがお好き」という問いがある。これもなかなか難しく私としては漠然と「今は比較的~あたりをよく見ます」とこたえるにとどまる。

人間の嗜好は絶えずうつろうものである。食べ歩きをとっても最近は懐石、潮目が変わるとイタリアン・フレンチはたまた中華・エスニックとなる。うつろってこそ生身の人間といえるが、でも実情は一定の範囲をうろちょろしているに過ぎないものだろう。

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